最後の西遊記 2019年
最後の西遊記 全3巻 野々上大二郎 2019年
ある日突然父親が連れてきた手足がなく目が見えない少女・コハルは人間の恐怖を実体化する力を持つ、世界すら滅ぼせる能力を持っていた。龍之介はコハルを守る為、混世の従者と呼ばれる妖怪を生み出す物と戦うことを決める。
冒頭
一風変わった導入
おどろおどろしい導入から、他人の恐怖を実体化する能力、恐ろしい能力を持ちながら心優しい少女コハルと真っ直ぐな少年龍之介の交流、不気味な妖怪との戦いと、一部の人に絶賛されたジャンプらしからぬ捻ったスタートの1話。
主人公、ヒロイン、設定に惹かれた読者には好評でした。
しかし、小3男子に四肢欠損の女子の面倒を押し付け、学校も辞めさせ、自分は家にいもしないくせにトラブルがあれば息子のせいで蔵に閉じ込める親父が理不尽を超えて虐待だろうという不快さを感じている意見も多く、開始早々反感を買ってしまいました。正直、僕も当時この親父002みたいな顔の割にひでぇなと思いながら読んでましたし。
一応、他に目的があったというフォローは後出しで語られるのですが、それにしたって子供2人放置はないだろ!とか最初から事情を話せ!とか思われても仕方ない展開だったかと思います。
理不尽というか虐待親父
ここだけでなく、初期と後半で設定が変わっている。もしくは、語られた根幹の設定がフェイクで真相が別にあるため、非常にわかりにくい作品になっています。妖怪退治をやりながらこの辺の設定を少しづつ開示していけば良かったと思うのですが、打ち切り事情も相まって、どんどん設定を打ち込んでくるため、説明回が非常に多くなってしまい、テンポが悪くなってしまいました。
恐怖を妖怪として実体化する能力、即ち己の恐怖との戦い。真人に近づく事で強くなる代わりに人間らしさを失う設定。地球を滅ぼす災害の妖怪化。あたりがうまく回れば面白かったと思いますし、この辺りの設定とストレートなキャラクターの描き方で好きな人が多いのもわかります。
妖怪を倒す組織「討怪衆」の元で保護され、妖怪を倒さなければコハルと引き離される龍之介は一緒にいる為に妖怪退治を行かことになります。討怪衆の仲間エステル、その先生フルカと病気の妖怪虎狼狸を倒していく4人。ここまでで人気が取れなかったんでしょうか、結末に向けて物語は加速していきます。
エステルちゃんとチューとかは良かったんですよ。少年漫画らしくって。
バトルも構図も見栄も少年漫画らしくて、スッキリ。能力も初期から使いこなせるので、その点でももたつきはなかったです。
攻防一体の如意棒、自在に変形するため、使い方のアイデアは豊富でした。
少年漫画らしい見栄
今まで敵として語られてきた混世の従者が同じ組織の仲間であり、味方を強化するための装置だった事が判明。術師による憑物落としで、妖怪の原因となった事象の改変を行うことができる。しいては、地球の滅亡も回避ができるという壮大な話になりますが、まだ、ろくに混世の従者と戦ってもいないのにそんなこと言われても困るよ。こういうのは10巻くらいかけて戦ったり、時に味方になったりを匂わせてからやってくれえ。
妖怪退治による、現実の改変
憑き物を落とす為に蒙を開くことで真人に近づくがそれはイコール人間性の喪失というところは面白かったと思うんですが、ちょっと説明が多すぎました。
多分先生自身練りに練って、話を始めたんだと思うんですけど軌道に乗る前に説明が多くなり、更に打ち切りで設定を打ち込んだせいでこんなふうになってしまったのかと…。
西遊記にちなんで、西遊記好きの芥川龍之介から主人公の名前を取り、
その芥川が西遊記と同じ舞台の、唐の小説杜子春をリライトしたものを下敷きにコハルの名前と真人を生み出す行として設定。
真人を生み出す行は杜子春になぞらえて、幻想の世界であらゆる苦痛を味わい一言も喋らないでいる時間が長いほど能力の高い真人がうまれてくるというもの。
思い入れは凄く感じます。
問題点の方はこちら、
わかりにくい点1 秘匿された設定が多い
開始時点での設定・目標
・他人の恐怖を実体化させてしまうコハルが人間に悪意を持たないよう。世界を守る為に龍之介を好きになってもらう。
・世界を妖怪で満たしてほろぼそうとするもの混世魔王「系」の従者からコハルを守る
・世界を滅ぼそうとする百番目(最後の)妖怪を真人となって倒す
(ただし、真人になると人を超越して、腕の再生などの能力を得る代わりに人間らしさを喪失する。)
実際、混世の従者の副リーダー「サイ」登場時は、人類の敵として小学生を殺しており、龍之介の友達しげちゃんも死にそうになっています。
あかされた目的
・世界を滅ぼそうとする百番目の妖怪を倒す
(これは同じ)
・世界を滅ぼす天変地異を妖怪化したものが百番目の妖怪。つまり現象が先で、それを回避する手段が妖怪化。物語形式にした99の妖怪を倒す事で、天変地異を妖怪化する儀式を行う
妖怪を倒すことで原因となったものを祓うことができる。
天変地異の妖怪化により世界を滅亡より救うことが真の目的
・その為に真人に近いものを増やす(ここも同じ)
・真人を作るために、人類の敵として苦難をあたえる「修行」が混世の従者の目的
・その修行の為に、妖怪を出現させ、多くの人間を殺した
まあ、そういう組織だし世界の危機に甘いこと言ってられないってのはあるでしょうけど、少年漫画としてこれが味方の組織っていうのは受け入れにくかったです。
わかりにくい点2
そもそもなぜ西遊記なのか?
最初は、唐の時代に如意棒を使い妖怪を倒す旅をした三蔵法師がいたことがかたられ、その如意棒を受け継ぐ龍之介たちが、三蔵一行の現代の姿であり、混世魔王(混世魔王自体が西遊記の敵キャラクターです)をたおす「最後の西遊記」ということなのかと思ったのですが、混世の従者のサイが孫悟空のかたわれであり、系と2人で孫悟空のモデルであることがあかされます。そうすると、サイとケイ2人の孫悟空の物語だから西遊記ってことになるのですが、これだと「最後の」部分が弱い。
更に、物語にそって天変地異を倒す儀式をする一つ目が「ラーマヤーナ」、二つ目が「西遊記」、三つ目が今回なので、厳密には西遊記でもないんですよね。強いていうと二回目であり最後となる西遊記って解釈なのかな…。
ここ、作者も有耶無耶にしちゃってると思うの。あと多分天変地異というか「破壊の概念」を倒してます?
如意棒は西遊記要素なんですが、
この流れで現代の孫悟空なのかと思いきや
妖怪を産むものと倒すものがまとめて孫悟空と呼ばれたことが語られます。
二回目の天変地異が西遊記、今回はもも物語。え、じゃあ、西遊記じゃなくない?
ちょこちょこ妖怪や真人を西遊記で例えて説明するのでなおさらどこが西遊記なのかわかりにくかったです。
ラストは全員集合で、100体目の妖怪と戦うところでエンド。終わり方も、多分初めから考えてたんであろう終わり方で綺麗です。
全体的に構想は面白かったんで、少し腰を据えて描かせてくれるところで連載するか、ジャンプでやるなら、コハルを守ると決めた4話以降は混世の従者とのバトルをカッコ良く見せることに力を注いだほうが良かったのかなと。
1、2、3話かけて世界とキャラクターの説明したあと9、10話が説明回、20、21話が説明回なのはバランスが悪すぎました。
でも、無刀ブラックの時もそうなんですけど、野々上先生単純なバトルより人を描きたい作家なんですよねえ。